パリのルイヴィトン財団にて大盛況をみせるバスキア展。その大規模な回顧展の傍ら、パリ中心部の小さなギャラリーで開催されている個展があった。フォトグラファー•坂野豊氏が1983年に東京にて撮影したバスキア本人の写真展である。
ジャン•ミシェル•バスキアと日本人

バスキアと言えば、日本ではZOZOTOWNを運営するスタートトゥデイ社長•前澤友作氏が約123億円というオークション史に残る価格で作品を購入したことが記憶に新しい(その作品も現在パリのルイヴィトン財団で展示されている)。
しかしバスキア本人を撮影した日本人がいたことはこれまで全く知られていなかった。それも、1983年だったというから35年も前の話である。
80年代初頭、世界に才能が認められるまで

バスキアは、1960年にハイチ出身の父とプエルトリコ出身の母のもとで生まれる。両親の離婚、母親の精神病、高校からのドロップアウト、逮捕、ホームレス生活など波瀾万丈なティーンエイジャー時代を送った。
そんな生活の中でも、ハンドメイドのポストカードやTシャツを作って日銭を稼いでいた。
夜間マンハッタンの建物の壁に描き続けたグラフィティアートによって才能を見出され、以降メディアや映画への出演、バンドの結成、アンディ•ウォーホルとの運命的な出会い、展示会での成功など、ただのホームレス少年から一アーティストとして世界的な大成功を手にしつつあった開花の時期こそが、1980年代初頭である。
1983年からは、アンディ•ウォーホルの所有するビルに拠点を移し、そこが亡くなるまでの生活と創作の場となる。友人でありメンターであるウォーホルとは共同制作をしたり、アートイベントに共に出席したりなど、交流を深めていった。
ISSEY MIYAKEの服に身を包んだ、未公開の写真たち
世界的に有名なアーティストとなったバスキア。同年、自身の個展のために東京に小旅行に来た彼を撮影したフォトグラファーこそが、坂野豊氏である。

当時、バスキアの顔も作品も知らなかったという坂野氏。エディトリアルフォトとして撮られたこれらの写真の展示が、この度パリはマレ地区にあるギャラリー•Garelie Patrick Gutknechtにて開催されている。
展示会のオープニングパーティーに足を運んだところ、アートやファッションに関心の高そうな老若男女から、たまたま通りかかって立ち寄った近所の方まで、あらゆる人々がバスキアの未公開写真に心打たれていたのだった。
そんなビジターで賑わうギャラリーに坂野氏本人がいらっしゃったので、お話を聞いてみた。
「言葉はいらなかった」
バスキアの作風からは、プリミティブで刺々しい、故に鑑賞者の心情に直接迫ってくる、そんな荒々しさを感じる。薬物中毒であった事実も相俟って、破天荒でアウトサイダーなイメージが先行するが、坂野氏の語るバスキアは意外なものだった。
「彼は実に好青年でした。こちらが何も指示しなくても、カメラの前でどう動けばいいのかが分かっていました」

坂野氏の感想からは、破天荒青年のイメージとは翻って、繊細で知的な人物像が浮かび上がる。ほんの数時間、ジェスチャーでのコミュニケーションがメインで終了したその撮影には言葉さえ必要なく、二人のアーティストが感性のままにコラボレーションをした瞬間だったと言えるのかもしれない。
実際に写真を眺めてみても、レンズの前に悠然と佇むバスキアからは一切の気取りや驕りが見られず、23歳らしい風貌と、23歳らしからぬ大人びた態度が見て取れる。手の動き、服の着こなし、全てのディティールがまるで計算され尽くしたかのように美しく、絶妙なバランスで調和しており、35年前に撮影されたということが嘘であるかのように「古くささ」を感じさせない。
その3年後、盟友アンディ•ウォーホルが逝去。翌年バスキアはウォーホルの後を追うようにヘロインのオーバードーズにより27歳の若さでこの世を去ることになる。
撮影当時を振り返って、坂野氏は言った。
「あの頃が彼の黄金時代だったと思います」
そんな黄金時代が飾られているギャラリー。現在、日に12000人ものビジターがいるというルイヴィトン財団での大回顧展とは対照的に、23歳の若きアーティストの肖像は精悍な眼差しで静かに佇んでいた。
78 Rue de Turenne 75003 Paris
火ー金 14:00-19:30
土 14:00-19:00
2019年1月19日まで開催。