先日、老舗メゾン『Dior』の歴史上初となる女性デザイナー、Maria Grazia Chiuri(マリア・グラツィア・キウリ)によるクチュール、2017SSがパリコレクションにて披露された。

今まで6人のデザイナーが造り上げてきた歴史を振り返れば、新任デザイナーが見せる新たなDiorの魅力がわかるかもしれない。

Dior70年の歴史

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DiorがChristian Dior(クリスチャン・ディオール)によって設立されたのは1946年、第二次世界大戦が終わった直後のこと。

設立後に披露されてた初のコレクションは「ニュー・ルック」と呼ばれ、女性の曲線的な身体のラインを美しく、そして華やかにみせるものであった。

Christian Diorが急死した後は、19歳の時から弟子として雇い入れていたYves Saint Laurent(イブ・サンローラン)を後継者として、Diorのデザインを担う事となる。

Yves Saint Laurentをはじめとする名チーフデザイナーたち

出典:https://zady.com/features/designer-history-yves-saint-laurent

一番あり、唯一の弟子であった彼はわずか21歳にてDiorのトップに立ち、1958年に「トラペーズライン」を発表する。

彼が自身の名を冠したブランドYves Saint Laurent(イブ・サンローラン)を設立したのは後の出来事である。

そんな彼が1960年に徴兵されたのを機に、Marc Bohan(マルク・ボアン)がDiorのチーフデザイナーに就任。

Marc BohanはDior以前にRobert Piguet(ロベール・ピゲ)でのアシスタントデザイナーを、Jean Patou(ジャン・パトゥ)の下でクチュールのデザイナーをしていたという実績のある人物であった。

故に、1967年にプレタポルテラインを本格始動、キッズラインの「ベビー・ディオール」やメンズライン「Dior ムッシュー」をスタートさせるなど、Diorという企業にとって大きな功績をもたらす。

約30年間チーフデザイナーを務めた彼のデザインは、時代を象徴する大女優Grace Kelly(グレース・ケリー)やElizabeth Taylor(エリザベス・テイラー)などに愛されるほどの美しいものであったのだ。

彼の後任としてはGianfranco Ferre(ジャンフランコ・フェレ)。もともとアクセサリーデザインを行っていた彼は、10年間契約が切れるまでブランドに在籍。

スキャンダラスだったJohn Galliano

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その後チーフデザイナーに就任したのが、John Galliano(ジョン・ガリアーノ)だ。

就任前、GIVANCY(ジバンシィ)でクチュリエを務めていた彼は、Diorにとって初のイギリス人デザイナー。

伝統を重んじてきたフランスのクチュールブランドにしては当時とても珍しい事であった。

そんな彼はDiorの50周年という記念すべき年のデザインを手がけ、その才能を発揮。後にJohn Gallianoを設立する。

ただ、残念だった事は彼がいくら才能のあるデザイナーであるにも関わらず、自暴自棄な生活を送っていたという事だ。

夜遊びに明け暮れ、借金は増して自身のブランドを倒産させてしまう。

終いには警察に逮捕され、Diorを解雇されてしまった。これはDiorのデザイナー史上最もスキャンダルな出来事だっただろう。

彼が逮捕された後、しばらく後任となるチーフデザイナーは現れず、ポストは空のままだった。

Dior メンズラインの息を吹き返したHedi Slimane

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さて、前述した通りMarc BohanはDiorのメンズラインとしてDior Monsieurが立ち上げられたが、その後はラインとして低迷していた。

そこに息を吹き返した人物こそ、2001年にDior Hommeの主任デザイナーとして就任したHedi Slimane(エディ・スリマン)だ。

Yves Saint Laurent(イブ・サンローラン)を手がけていた彼は2007年AWパリメンズコレクションを最後に、その地位を自身の元アシスタントであったクリス・ヴァン・アッシュに譲る。

ニューホープ Raf Simons

出典:https://hypebeast.com/2016/6/calvin-klein-raf-simons

2011年にガリアーノ解雇がされた後、約一年空席となっていたチーフデザイナーの座に、初のベルギー人クチュリエと呼ばれるRaf Simons(ラフ・シモンズ)が就いた。

もともと大学で家具のデザインを専攻していた彼は、1991年にパリコレを見て感銘を受けファッションデザインを学び始めたと言われている。

Dior以前はJil Sander(ジル・サンダー)でデザインを手がけていた彼。

ファッション界での年数など実績があまりない異例の抜擢でありながらも、彼の魅せるコレクションは絶賛されていた。

しかし、就任してから約三年後である2015年にRaf Simonsは退任することを発表。

要因はあまりにも過密であったスケジュールだと言われている。

年に6つのコレクションを手がけ、一つのコレクションにかける日数はなんと3週間。

彼のデビューとなったオートクチュールコレクションを捉えたドキュメンタリー映画『ディオールと私』では、8週間で製作をしなければならなかった彼が、ついにそこまでスケジュール的に追い込まれていたのだ。

昨年Diorに舞い降りた、初の女性デザイナー

出典:http://www.lofficielmalaysia.com/2612/rumour-dior-hire-valentinos-maria-grazia-chiuri 

Raf Simonsの退任が惜しまれ、ファッション業界のデザイナーの過酷なスケジュールが問題視される中舞い降りたのがMaria Grazia Chiuri。

FENDI(フェンディ)やVALENTINO(ヴァレンティノ)で実績を積んで来た彼女は、業界内でかなりの努力家としても知られている。

Dior史上初となる女性アーティスティックディレクターとして、彼女は例のごとく1カ月あまりというスケジュール感で初のランウェイショーを手がけたが、VOGUEでのインタビューではそれを大変に思わなかったことを打ち明けている。

正直、答えはノーですね。私の人生の中で経験した最大の闘いは、私自身に対するものでした。恐れやステレオタイプを克服し、自信を手に入れるための闘いです。初のコレクションで、インスピレーション源にフェミニズムやフェンシングを挙げたのも、それが理由かもしれません。

また、今後の自身のクリエイティヴに関して次のようにも話している。

「私の先人たちが残した功績を尊重することが私の役目です。創立者のクリスチャン・ディオールをはじめ、イヴ・サンローラン、マーク・ボアン、ジャンフランコ・フェレ、ジョン・ガリアーノ、エディ・スリマン、ラフ・シモンズ……彼らとの違いは、私が自分自身アパレルのラインを持たないことでしょう。ディオール専属。したがって、全力でディオールに取り組むこととなります。私の真の望みとは、ディオールのドアを大きく開け放ち、アトリエスタッフの施す精巧な手仕事を世界に知らしめることです。」

彼女にとって初披露となったDiorのクチュールは、ロダン美術館の中庭で行われた。

出典:https://i-d.vice.com/en_gb/article/maria-grazia-chiuri-debuts-her-dior-haute-couture

フェイクのガーデンメイズが会場内に広まり、上にはそれを映す鏡が一面に張られている。

中央の木にはライトだけでなく、カードやアクセサリーなど、まるで幼い女の子の宝箱の中のぐちゃぐちゃが吊るされているよう。

幻想的でロマンチックな雰囲気の中、Diorの伝統を重んじるようなクチュールが披露された。

「夢を見るというアイデアを失いたくありません。しかし、クチュールをウェラブルにする事を可能にしたいとも思っているんです。」

クチュールといえば幻想的で、着るというよりは見る方がしっくりくる存在であった。

そんな従来の固定概念を、この女性はそのタフさをもって打破し、Diorの歴史を大きく動かしていくのかもしれない。

source:http://www.vogue.co.jp/fashion/interview/2017-01-dior
http://www.vogue.co.jp/fashion/interview/2017-01-dior
http://dior-history.com/