本日1月30日(月)から3月4日(土)の期間、写真展『Audrey Hepburn(オードリー・ヘプバーン)』が開催される。

世界中から愛された女優オードリー・ヘプバーン。

愛らしく、聡明で、気品あふれる姿は『永遠の妖精』と言われ、多くのファンを魅了し、今もなお絶大な人気を誇っている。

世界中から愛される彼女は、一体どんな人生を歩んできたのだろうか。

アメリカ映画『ローマの休日』にて、初めて主演女優に抜擢。

1929年5月4日、ベルギーの首都ブリュッセルで生まれた『Audrey Hepburn(オードリーヘップバーン)』。

彼女は、『American Film Intestate(アメリカン・フィルム・インスティチュート)』が行った『AFIアメリカ映画100年シリーズ』でアメリカ映画におけるスター俳優、女優を25名ずつ選出した『映画スターベスト100』で第3位に選ばれている。

© Collection de la Cinémathèque Suisse
© Collection de la Cinémathèque Suisse 

この時、アカデミー主演女優賞を受賞している。ヘップバーンが演じたアンは、ヨーロッパ某国の王女役で、舞台はヨーロッパ各国を表敬訪問中、最後に滞在したイタリアのローマ。

過密なスケジュール、王女として振舞わないといけない若き王女。

伝統的なネグリジェではなく、私たちのようにパジャマで寝てみたり、社交ダンスではないダンスを踊ってみたり……と、そんな欲求が満たされず、不満がたまったアンは、夜中にこっそりと逃げ出してしまう。

道端のベンチで眠ってるアンに出会った新聞記者の『グレゴリー・ペック』が演じるジョー・ブラッドレーは、成り行きで得体の知れない女のアンを自分の部屋に泊めることになる。

翌朝、ジョーは仕事場でアン王女の写真を見て、やっと自分の部屋で寝ている女と同一人物だということに気づくのだ。

スクープを撮るために、彼女と丸1日一緒に過ごすうちに、ジョーもアンもお互いに惹かれていくという話。

出典:https://theskinnystiletto.wordpress.com/tag/audrey-hepburn/

映画の結末で見せるアン王女の記者会見では、ドレスが今までと見違えてファッショナブルになっていることは、この映画を観た人も気づいてるであろう。

初恋は諦めた。

でも、女性としても、自分の生まれた役割を受け入れ、最後に見せる凛としたアン王女から、オードリー自身に流れる高貴な血や、性格も伺えるのではないだろうか。

オードリー・ヘップバーンが『永遠の妖精』と呼ばれるまで…

ベルギーの首都ブリュッセルで生まれた彼女は、イギリス人である。

父親がイギリス人の血を引いているため、ヘプバーンもイギリス市民権を持っていた。

両親とも、2度目の結婚で、ヘプバーンには異父兄が2人いた。

母がオランダ貴族であったため、実家であるオランダ、父親の仕事がイギリスの会社と関係があったため、ベルギーを含めた三ヶ国を幼少期に行き来することになる。

その後、両親が別れ、ヘプバーンは母と2人で過ごすようになる。

第一次世界大戦で中立国であったオランダは、これから始まろうとしている第二次世界大戦にも中立でいようとした。

1939年、第二次世界大戦が始まる前に、母親のエラはヘップバーンと共に、オランダに帰郷。

ところが、1940年の翌年、ドイツ軍がオランダに侵攻し、母方の叔父は反ドイツのレジスタンス運動に加担したという疑いで1942年に処刑された。

その後、ヘプバーンの異父兄にも、魔の手が伸びる。彼は国外追放を受け、ベルリン強制労働収容所に収監された。

まだ少女のヘプバーンの心に深く刻まれた、苦く辛い戦争時代。

そんな中でも、ヘプバーンは5歳から始めたバレエを続けており、1944年頃には、れっきとしたバレリーナとなっていた。

反ドイツのレジスタンス運動をしている人たちに、隠れて公演を行って資金を稼いでいたのだ。

その頃、オランダでは食料、燃料不足に加えて、レジスタンスが起こした鉄道破壊などの報復で、ドイツ軍に物資が断たれた。

母や祖父と身を隠していたが、戦争はなかなか終わらず、彼女は栄養失調に苦しみ、重度の貧血や呼吸器障害に悩まされた時もある。

そののち、戦況が好転し、オランダからドイツ軍が駆逐され、その後の1945年に第二次世界大戦が終結した。

戦後、母娘はアムステルダムへと移住し、そこでヘプバーンは3年間ソニア・ガスケルにバレエを学ぶ。

1948年にはロンドンに移り、イギリスのバレエ界で活躍していた舞踊家マリー・ランバートが主宰するバレエ団に入る。

母親は下働きの仕事で家計を支えていたが、ヘプバーン自身も母を助けるために金銭を稼ぐ術を模索し始める。

その結果、当時、バレエの仕事よりも高給で、自分の能力を活かせる舞台の仕事を始めるようになる。

少しした頃、ヘプバーンの舞台を観た、某映画会社の配役担当者に認められ、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録される。

イギリスで数本の映画に脇端役で出演していくうちに、1951年のブロードウェイ舞台作品『ZIZI(ジジ)』で主演に抜擢され、先ほど話した『ローマの休日』、加えて『麗しのサブリナ』『尼僧物語』『ティファニーで朝食を』『シャレード』などの人気作、話題作に出演。女優として、ヘプバーンは、映画作品、舞台作品に関わらず、多くの賞を受賞している。

1989年のスティーヴン・スピルバーグ監督作品の『ALWAYS(オールウェイズ)』を最後に約40年間の女優業を終えた。

後半生は、1965年にスイスに購入した家で、息子と過ごす。戦争を間近で感じた子供時代の影響のせいか、後半生のほとんどを国際連合自動基金(ユニセフ)での仕事に捧げる。

ユニセフへの貢献を始めたのは、1954年からだが、1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身した。

1992年の終わりには、ユニセフ親善大使としての活動に対してアメリカ合州校区における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。

この一ヶ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で63歳で幸せな人生の幕を閉じた。

映画の中で彼女がどんな役を演じようと、凛とした佇まいや仕草、優しい微笑み、その中に見え隠れする、子供のような表情も変わらない。

いつの日か、そんな彼女を人々は『永遠の妖精』と呼ぶようになった。

オードリー・ヘップバーン写真展、本日開催。

写真展『Audrey Hepburn』
主催:Art Gallery M84
期間 : 2017年1月30日(月)~3月4日(土)
場所 : Art Gallery M84
所在地 : 東京都中央区銀座四丁目-11-3 ウインド銀座ビル5階
電話 : 03-3248-8454
開館時間 : 10:30~20:00(最終日17:00まで)
休館日 : 会期中無休
入 場 料 : 500円
URL : http://artgallery-m84.com/?p=3749