【連載】Faline Tokyoオーナーとして、一人の女性として。Baby Maryの生き方 -第1話-

原宿シーンにおけるトレンドを築き、ファッションアイコンとして知る人ぞ知る存在であるBaby Mary。

東京内で最も感度の高いセレクトショップのひとつである『Faline Tokyo』のショップオーナーである彼女の幼少期にまつわるエピソードから、Faline Tokyoの創業時やショップコンセプト、Faline Kidsや原宿、SNS時代に思う事を我々に語ってくださった。

それらを本日より5日間の連載でご紹介しよう。

本日は、あまり明かされていないBaby Maryの学生時代やファッションとの出会いについてだ。

名古屋出身、小さい頃はおてんばガーリー娘

私は名古屋出身で、妹と弟がいるわ。幼少期はズバリ、おてんばな子供だったわね。

おてんばと意識する前は、恐らくパパ似で 異端児の素質が見え隠れしてた思うの。

あまり記憶はないのだけれど(笑)苺とママの作ってくれた人参のグラッセとグリンピース御飯が 大好物だったのは よく覚えているわ。

代わりにママの思い出話を話すわ。彼女曰く、彼女が公園に行くと私がいつも男の子達に混ざって遊んでいたの。

私一人だけがママが買ってくれたピンクのHanae Moriの自転車で彼らを追い回していたんだって(笑)

私もその自転車がサドルからブレーキまで、とにかく全部ピンクだったのは覚えているわ。

ママはHanae Mori(ハナエ・モリ)が好きだったのね。

それに乗って、わんぱく坊主たちにくっついて遊んでいたの。

でも、ガーリーな一面もあったわよ。私、リカちゃん人形が大好きで。

凄く欲しい”白い家具”シリーズのグランドピアノ を お誕生日プレゼントに 近所の人も巻き込んでおねだりしてたら、2個もらってしまったの。

『シューベルトの子守唄 』と『野バラ』のオルゴールで迷って私が決めて、渋々彼女にあげた想い出。(笑)

その頃から やんちゃで男の子っぽい要素とスポイルで ガーリーな要素を両方持っていたのね。 きっと。

中高時代は、正義感溢れるお洒落番長

小学生の頃から、学生時代は明るい性格だったんじゃないかな。

それというのも、私の席の周りにはいつもちょっとナイーブな男の子たちが座っていたの。

先生が明るい私の近くに彼らを座らせるように、わざとそうしたんだと思う。

女の子の独特な含みとかはしっかり見抜いていたし。

いじめっ子の女の子が他の子をいじめているのはやっぱり気になってみていたわ。

順番に誰かをいじめていた女の子は、最後に彼女がいじめらて誰も彼女としゃべらなくなったの。

小学校の記憶ね。そうやって子供の頃に学べばいいけれど、今のいじめはSNSの世界でもあるっぽいから無差別攻撃で、誰でもできるし危なっかしい。

中学生の時に先生に言われて印象的だった言葉があるの。

その日クラスで人気者だった男の子が、身体が不自由だった子の事をからかって怒られていたの。

その時、先生が彼の事をひっぱたきながら「マリみたいにちゃんと人の目を見て話を聞きなさい」って怒鳴ったのよ。

私もクラスの人気者が怒られているから目を見張ってみていたんだけど、まさか自分の話がでてくると思わなくて(笑)

だから多分、私はいつも人の話を聞くときや話す時は、ちゃんとその人の目を見ていたタイプだったのね。

それを FALINEGIRLSやBOYS(Faline Tokyoで働くスタッフたち)には伝えているけど、そういう自分もSNSで伝える事の方が 多くなってきたわ。

高校生の時に私のクラスを担当していた先生に、同窓会で言われた事も印象だったの。

「マリ、お前が先生になれ。日本の教育現場にはお前が必要だ」って(笑)

その先生は体育の先生で、いわゆる熱血教師。

当時、教育委員会とも結構バトルをしていたみたいで、私を含めたお転婆がかき集められたクラスをその罰として受け持つことになってしまった事をその時に明かされたわ。

でも先生が言うには、今までの教師生活において私たちのクラスが、一番思い入れがあるというのよ。

というのも、私たちは凄く情熱的だったし、やりたい放題でもあったのだけど、特に私とかは統率力があってクラスを一つにまとめていたから楽だったみたい。

派手で中心にいるチームではあったけど、ちゃんとクラス全員を仲間に入れて、学園祭でファッションショーをやったりしたわ。

ファッションとの出会いは昼下がりのディスコで

私がファッションを意識しはじめたのは、多分ディスコに通いだした15歳の頃。

その時は今のようなナイトアウトではなくて、ディスコが昼間の1時から夜中の3時くらいまでやっていたのよ(笑)

だから学校の四時間目にはマニキュアを塗り、授業が終わったと同時に「行ってきます、先生!」って具合に名古屋の街へ繰り出して行ったわ。

その頃ちょうどニューウェーブの音がロンドンからガンガン入ってきていた時期だったの。

東京は『ツバキハウス』で盛り上がっていた頃かしら。

名古屋は “OZ” という伝説になったクラブが出来て後に “流行通信” (流行通信は ファッション雑誌の中でも特に歴史のある雑誌の一つ。)にも取り上げられていたわ。

そこに週末や放課後はいつもいて、あまりにいるからパパもいつの間にか顔パスで、近くにいると夜中に、よく迎えに来てはパンクスの仲間のお友達に私はどこか聞いていたわね。(笑)

David Bowie(デイヴィッド・ボウイ)や Cyndi Pauper(シンデイ ローパー)が 名古屋で公演を終えた後、そのままくるようなクラブだったから、十代にして普通にそういう人たちを見れていたの。

言うなれば、少し前のルバロン(Le Baron de Paris)の80’s版といった感じかも。

ニューロマンチックと言われてた音楽の Duran Duran(デュラン デュラン)や、Culture Club(カルチャー クラブ)の Boy Gorge(ボーイ ジョージ)に夢中な時代だったわ。

だから、皆お洒落して行ってた。

私は『Strawberry Switchblade (ストロベリー・スウィッチブレイド)』みたいになりたがっていて。

同じ格好でくる女の子に憧れたり、忌野 清志郎のような格好をして毎週来る男の子もいたわね。

パンクスもサイコビリーも全盛期で全てがミックスされて、まさに“フリークショー”って雰囲気だった。そこから出て 有名になったのが “BLANKY JET CITY” (ブランキー ジェットシティ)よ。

遊びに行く派手着は自作だった

派手な格好をしたくて、洋服は自分で作っていたの。

自分の着たい服は多分どこかに売っていたと思うのだけど、その時の私はまだ幼かったからお洒落な洋服屋さんにはたどり着けなかったわ。

私が作った服は立派な仕上がりとは言えないものだったけど、生地屋さんの舞台衣装コーナーに行っては生地を買い、バレリーナのステージ衣装のような格好をして毎週遊びに行っていた。

今見たらきっとダサいと思う。(笑)

最後の曲はいつもスパンダーバレエ や カルチャークラブの名曲で チークダンスを踊って 恋もたくさんしたわね。

DJは大貫憲章さんという贅沢。

その頃はとにかく『ロンドンに行きたい』という本がバイブルで、みんなロンドンを行ったり来たりしていたわ。

明日に続く……。

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第1話:ファッションとの出会いは昼下がりのディスコで

第2話:18歳頃、パリコレのインビテーションをもらう

第3話:Faline Tokyo開店当初と今の原宿の違い

第4話:Baby MaryのSNS論

第5話:Falineのこれからと今後セレクトショップを開こうと思っている人に向けて

 

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『Valentine Greetings Party』
日時:2.14 19:00-24:00
場所:Faline Tokyo