POSTED ON 2017年7月18日 1 MINUTE READ BY SIXTYMAGAZINE TEAM
世界に飛び出し自身のクリエイションに情熱を注ぐ日本人クリエイターを紹介する企画『世界で活躍する日本人』。今回は、アメリカ、ニューヨークを拠点に展開する、働く女性のためのファッションブランド「MM.LaFleur」の共同設立者でクリエイティブ・ディレクターとして活躍する中村美也子さんにお話を伺った。
中村美也子
「MM.LaFleur」共同設立者&クリエイティブ・ディレクター
京都の高校卒業後、アメリカ、ボストンの大学に進学。オハイオ州の大学でファッションを学びニューヨークへ。Zac Posen(ザック・ポーゼン)やJason Wu(ジェイソン・ウー)でデザイナーとして働いた後、Sarah LaFleur(サラ・ラフルール)とNarie Foster(ナリー・フォスター)ともにファッションブランド「MM.LaFleur」を設立。クリエイティブ・ディレクターとして活躍。
MM.LaFleur:https://mmlafleur.com
instagram:@mmlafleur
ーー中村さんは「MM.LaFleur」の共同設立者でクリエイティブ・ディレクターというのをお聞きしました。具体的にどういったお仕事をされていますか?
洋服を含めた会社のヴィジュアルに関するデザインのディレクションをしています。
ーーいつからニューヨークで活動されいるのですか?
ニューヨークには12年前から住んでいますが、初めてアメリカに来たのは高校卒業後、マサチューセッツ州のボストンの大学に留学するためでした。大学ではコンピューターサイエンスを専攻していて、プログラミングなどの勉強していました。
ーーなぜコンピューターサイエンスを選んだんですか?
これから需要があるだろうという予想と、次の時代に何が役に立つかを考えたときに、コンピューターだと思ったんですね。でも2年目ぐらいで嫌になったんですよ。全然向いていなかったんですね。この世で一番自分に向いていない仕事だと思いました。
そこで、「何が本当に好きなんだろうか?」「自分は何が本当にやりたいのか?」ということを自問自答するうちに、ファッションの仕事をしたいと思うようになったんです。
そこでファッションの勉強ができて日本人が少ないという理由でオハイオ州の大学に編入しました。ボストンは日本人が多かったんですよね。最初はファッションマーチャンダイジングを勉強しようと思っていたんですが、デザインのクラスを取るようになって、デザインが好きになっていきました。
ーー思い切った方向転換ですね。なぜ日本の高校を卒業後、アメリカに行こうと思ったのですか?
子どものころから英語に憧れがありました。お父さんの転勤で海外に行く子とか羨ましくて、日本の外に出たいなという考えが子どものころからありました。
あと、高校生のときに、大学受験のためにすごく勉強をしても将来的に何にもならないもののために、なぜ私は努力しなければいけないのか?という疑問がありました。というのも、高校受験のためにすごく勉強をしたのですが、高校に入るとその内容なんてすぐ忘れちゃったんですよ。いわゆる教育システムのナンセンスみたいなものが嫌だったんですよね。
そこで海外の大学はどうなのかなと思ったんです。グローバル化が進むだろうという考えもありました。そのときに何が必要かと考えたら英語だったんですよね。英語が話せる道を選びたいなという思いがあって、渡米を決めました。最初は英語が全然話せなかったんですけど。
ーー「MM.LaFleur」を立ち上げる前は、ザック ポーゼン(Zac Posen)やジェイソン ウー(JASON WU)でデザイナーといて働いていたとお聞きしました。どのようにしてファッションデザイナーとしてのキャリアをスタートさせたのですか?
最初はZac Posenのインターンとしてキャリアをスタートさせました。そこからアシスタントデザイナーになって、一度辞めたんですがもう一度呼び戻されて、ヘッドデザイナーになりました。
ファッションデザイナーは競争の激しい世界で、仕事を得るだけでも精一杯なんですよ。というのも、デザイナーという職業やブランドの数は決まっているのに、毎年何千人もの学生がファッションデザイン学部を卒業しますよね。なので大学卒業後は、とにかく働くという姿勢でした。当時は働いていた記憶しかないです。
ーーZac Posenでの仕事を通してどういったことを学びましたか?
Zac Posenにいた7年間で、ブランドがすごく小さいところから大きくなって、そこから不景気の影響で縮小していく過程を経験しました。そういった流れを1つのブランドで過ごしたことで、世の中の動きや波を感じたことが良かったですね。さまざまな規模の会社に所属した感覚でした。
また、会社がどういう状態にあるのか、「作ること」と「売ること」の違いを考えていましたね。会社の調子がいいときは、クリエイティブなものができても、世の中の景気が厳しいと制限されるんですよね。
クリエイティブなものを作ることと、セールスチームを喜ばせてあげることは必ずしも一致しないんです。そういった点で企業デザイナーの役割は大変で、クリエイティブな面を強調するのか、売れるものを作るのかという間ですごく悩んだこともありました。
Zac Posenでの仕事を通して、会社の中で働くデザイナーとして一番大事なものは何なのかという疑問を持つきっかけにもなりましたし、MM.LaFleurを始めるきっかけにもなったと思います。
ーーMM.LaFleurを始める前、中村さんがインタビューで「ファッション業界のシステムやルールが理にかなっていないと感じていた」と話しているのを読みました。具体的にどういったことなのでしょうか?
当時、ファッション業界の「動き」というものに疑問を感じていたんですよね。業界がもう続かないなという感覚があったんです。業界のナンセンスというものを感じていました。みんな
一生懸命働いているのに、何にもならないみたいな。
例えば、デザイナーが本当に求めているものが、すごく売れるのか?というとそうでもないこともあります。現在では、デザイナーが打ち出したいものと消費者が求めているものの間にギャップがすごくあります。ファッションショーの服を普段着るには難しいといったことがあるように、突き詰めれば突き詰めるほど、ビジネスとして成立しなくなるというのがありました。
また、会社が大きくなればなるほど、デザインから生産までの過程で無駄があります。もし自分たちが作り上げたシステムでそういった無駄な過程を少しでも省くことができれば、もっと効率のいいビジネスができるのではないかと思んです。
MM.LaFleurでは私のスタイルを表現するのではなく、働く女性が美しくみえて、彼女たちにとって便利なデザインを目指しています。
ーーMM.LaFleurを立ち上げるに当たって、もう一人の共同設立者のサラ・ラフルールさんとはどういう経緯で出会ったのですか?
サラとの出会いはラッキーでした。サラが会社始めたいという時に、何人かのヘッドハンターとミーティングをして、私と仕事をしていたヘッドハンターが彼女と繋げてくれました。サラと初めて会ったときに、「この人好きだな」という感覚があったんです。恐らくお互い同じ感覚だったと思います。
正直、当時の私にとってサラが持ってきたプロジェクトはとても小さいものでした。なので、ドレス数着ぐらいやりますよという軽い気持ちで始まり、気が付いたらこんな会社になってましたね。
ーーNYで働いていて日本との違いはどういうところに感じますか?
日本はすごくきっちりしているイメージで、真面目ですよね。ニューヨークは雑だけど、早い。ニューヨークで働いて、いつも思うのは真面目さよりも仕事のポイントを知ることが大切だということ。与えられたことを、1から10まできれいにこなすよりも、1から10与えられた中で、一番大切なことを理解して、そこに集中することがこの国では大切だと思います。
そのポイントが自分の得意なことならば、どんどんスゴイことをやらせてもらえるようになります。ニューヨークの素晴らしいところは、早さやスケールに限りがないところです。
ーー日本人としての困難や苦労をしたことはありましたか?
基本的に日本人は得だと思うことの方が多いですね。日本人って印象がいいので、ファッション業界は特に、日本人というだけで喜ばれることもありますね。
ただ仕事に関しては、日本人は自己アピールが弱いと思います。黙って頑張って働いてしまいますよね。でも自分がやったことを主張できればニューヨークで勝ち進めると思います。
ーー自分を主張するために工夫したことはありますか?
黙ってるとつぶされちゃうんで、少し意地悪にならないといけない時があるんですよね。自分の意見を主張するように意識した時期はありました。
あと、大人に見えるように意識したこともありました。28歳の時にZac Posenのヘッドデザイナーになったのですが、社外の人とデザイン会議した時はアシスタントだと思われていました。他にもアシスタントがいたのに、外見だけで若く見えてしまいヘッドデザイナーに見えなかったようなんです。なので、威厳があるように見えるように意識していた時期はありました。(笑)
なので、私のお客さんも同じ状況にいるのかなと思うこともありますね。働く女性としてキッチリ見られたいとか、できる女として見られたいという気持ちは分かります。
ーーNYだからこそ、できた仕事はありますか?
セレブ中心のブランドで働いていたので、有名な人にはほぼ全員会ったといっても過言じゃないですね。(笑)その中でも、素晴らしい人たちには素晴らしい理由があって、成功している人たちには絶対成功している理由があって、それは本人に直接会って交流してみないと分からないんです。
NYという街にはすごい人たちがいっぱいいるんですよ。そういった人たちと頻繁に出会えるのはNYの特権なのかなと思います。例えば、オノ・ヨーコさんの家にフィッティングの仕事で行ったことがあったんですけど、すごいエネルギーの持ち主で、本当にオーラがある人でした。強い女性で、有名な人にはパワーがあるんだと感じました。
ーーNYで何かを成し遂げるために必要なことは何だと思いますか?
私の座右の銘なんですが、「七転び八起き」。絶対に失敗はするんです。でも、「私はこれがやりたい」と永遠に思い続けている限り、できると思うんです。もちろん、それが10年後とか20年後ということもあると思います。最終的に諦めなければそこに辿り着けるという気持ちで、何かに取り組むことがこの街で生き残るための秘訣だと思います。
ーークリエイティブ・ディレクターとして常に心に留めていること、意識していることは何かありますか?
ユニークなものを作ること。それは決して「目新しいもの」という意味ではなくて、デザインのセオリーとして同じものを作っているだけでは、デザイナーとして働いている意味がないと思います。
ただ全てのデザインが目新しいということではなくて、コンセプトとして今までにないものや、この視点で物事を見ることが新しい、"一歩離れた視点で見た新しさ”ということを常に気にするようにしています。
ーーインスピレーションやクリエイティビティー源は?
感覚的なものですね。偶発的なものとか、起こるべくして起こったものを信じています。例えば、とあるフォトグラファーがインスピレーション源だとします、そのフォトグラファーをネットで検索するのも一つの方法です。でも、その人の本を探し求めて歩くことは検索することの5倍ぐらいのインスピレーションが得られると思うんです。探し求める過程で色んなものに出会うので、情報だけがインスピレーションではなくて、その情報を探す過程を大切にしています。なので、このデジタル社会でも、本屋に行きますし、買い物にも行きます。自分の目で見て、自分の足で歩いて、自分の手で触れる経験をできるだけ多くしようとしています。
ーー今後日本で活動しようと考えていますか?
日本に帰って日本の社会で活動することは恐らくないと思います。でも日本という国をすごく誇りに思いますし、日本が大好きです。なので日本と何かをやりたいという構想はあります。
外国に住んでいるからこそ見える日本の美しさがあって、そういうものを世界規模で展開したり、広めたりする仕事ができたらいいなと思います。
ーー最後に日本を出て活動しようと考えている人に一言お願いします。
すぐに出てください。(笑)最終的に日本に帰って来るにしても、日本の外に何があるかを知っている方が豊かだと思います。一度外に出て、やっぱり日本が好きだと帰る人もたくさんいます。そういう人は、自分は何が好きかというのを理解していて、日本にいることが2倍も3倍も楽しいと思います。経験が全てですよね。
終始笑顔でインタビューに答えてくれた中村さん。未来を見つめながら自分が抱いた疑問や課題に真摯に取り組んできた彼女の話は刺激的だった。自分が本当に好きなことを見つけて突き進む時、その過程に待ち構えている失敗や挫折を経験しても、もう一度立ち上がる強さを持つこと。そして自分が思い描いた未来のために、今の自分には何が必要で何をしなければならいのか考え行動することの大切さを筆者は感じた。